片付かなかった私の部屋が夫と菅木志雄によって片付き始める予感
ある晩の我が家の家族団らんにて
最近、私はあるテーマ(本件とは無関係)について明確な問いを持って勉強に取り組み始めたのですが、そんな折、夫から「もしあなたがライフワークとして何かしらの問題に取り組むのであれば、”それ”はやめなさい。」と助言されました。
夫の言う”それ”とは、「ものをに無秩序に置くこと」です。
夫曰く「机の上に資料が山積みでもよい。但し、その配置については秩序が必要である。」とのこと。具体的に例を出すと、リモコン類は机の縁と平行になるように大長→小短となるように置きなさい等ということです。事実、私の自室ではものが無秩序にぽん、ぽんと置かれています。これは実家の自室からずっと変らない状況であり、それは癖というほど無自覚ではなくどちらかというと確信犯的です。おそらくその行為と状況どちらも私にとって心地のいいものなのでしょう。しかしその理由は自分自身分かりません。今までそんなこと考えたこともありませんから。では、そのときの私は以下の2点の問いを得たということになります。
①「なぜ私はものを意図的に無秩序に配置するのか?」
②「なぜ夫はその無秩序な配置に対して改めて言及したのか?』
菅木志雄「置かれた潜在性」展@東京都現代美術館にて
すぐに前段落の話などすっかり忘れた私は先週の金曜日、東京都現代美術館で開かれている菅木志雄の個展へ出向きました。その名も「置かれた潜在性」展。何か難しそう。はい、少し難しいです。
「菅木志雄とは『もの派』と呼ばれるこの時代の美術動向を牽引してきた作家です。石や木、金属板などを素材として空間の中に形成される菅のインスタレーションは、物質と物質を一つの空間に共に存在させることによって立ち上ってくる『風景』の生成といえます。物質が集合して存在すること、そこから生まれる相互の連関性を感性豊かに制御することで空間や物質が変容を始めます。創作行為という介入の結果により空間を活性化すること、それが菅の作品の本質にはあると言えます。」
まだ、少し難しいので、「もの派」についてもう一つ補助文を引用します。
「『モノ派』とは、芸術表現の舞台に未加工の自然的な物質・物体を素材としてでなく主役として登場させ、モノの在りようやものの働きから直かに何らかの芸術言語を引き出そうと試みる」
「モノ派」展 鎌倉画廊カタログ(1986年)より引用だそうです。※1
何となく分かったような気になってきました。ちなみにもの派の「もの」「モノ」とは、
「日本語で『物』は『物体』、と『物質』の両者を区別しないまま指し示す概念である。〜中略〜しかしながら、例えばいすでなく原木が多用されたように、『物体』よりも『物質』に重点があったと指摘できる」
と、確認したところで写真を見てみます。
画像は「置かれた存在性」展 東京都現代美術館公式サイトより引用しています。
「もの」(=『物』であり『物質』である石)が、ぽん、ぽんと置かれて、その時のその瞬間の「状況」をつくっています。それそのこと自体を見てね、感じてね。ということのようです。
「ぽん、ぽんと置かれて、ねー。・・・あぁーーーー!!!私の部屋と一緒じゃん!!」
と、一瞬思ったのですが、まさかそんな訳はありません。
そんな訳ではない大きな理由として「ぽん、ぽん」がどのようなリズムを刻んでいるか、が関係していると思いました。写真からも見てとれるように、その配置はすぐに分かるような規則性(≒ルール、秩序)はないものの、相互にある種の緊張感をもった均衡をとりながら拮抗しており、そこには気まぐれで人間的な判断によるところは感じられません。
一方、私の部屋はというと、明らかに私の生活リズムが色濃く反映されています。具体的に書きますと、ティッシュはよく使うから無理をして手を伸ばせばどこからでも取れるところ、ケータイの充電器は使ったり使わなかったりだから定位置なし等、シャーロックホームズでなくても、私の部屋を見たら私の生活を推理できるんじゃないかというくらい。逆に言えば、そんな①私の動物としての人間的で無秩序な生活リズムを奏でているからこそ当人の私自身は心地よさを感じているのだとも言えます。
しかし、改めて客観的に自分の部屋を俯瞰すると、そのリズムには当然何かしらの主張は感じられることはなく、さらに言えばとてもここから創造的な何かが生まれたり、あるいは、きっちりと論拠が重ねられた結論が導きだされるような場ではないように思えます。
夫の助言に立ち返って
そこでやっと冒頭の夫の助言を思い出し再考すると「ものを無秩序に置くこと」を止めよとは「無秩序な生活」を止めよということであり、もっと言うと「無秩序な自分」を脱して自律的になりなさいと”ほぼ”同義だと言えます。(ここで、”ほぼ”と書いたのは夫は「資料は山積みでもよい。」といっており、その「配置について」のみ言っているからです。おそらく、「ガチガチにルール立てると遊びの部分がなくなってしまい、自分が本来もっているアイディアや創造性等の未来(上)へ広がりを持つものに対しても制限してしまうことになりかねない。」ということを懸念しているのだろうと思います。)つまり、②思いつきをアイディアや結論として結実させたいのなら、論拠を正しく積み重ねる必要が在り、そのためにはそれ相応の自律(秩序だった自我)は不可欠だということを教えてくれたのでしょう。
以上、私が片付けることの意義を痛感したというお話でした。
※1:恥ずかしながら筆者は本カタログを実際読んだことはなく、本文中引用は中ザワヒデキ(2014年)「現代美術史日本篇1945-2014」アートダイバー pp57からの孫引きです。
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