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第二回 美術批評を知っていますか

 大変おひさしぶりの更新になってしまいました。今回は既に予告している通り日本の美術批評史上における大きなできごととしてアーネスト・フェノロサの活動について書いていきます。日本美術に対する功罪どちらの側面でもよく語られるフェノロサですが、日本の美術批評にも一枚も二枚もかんでいました。

 

アーネスト・フェノロサの来日と内国勧業博覧会 

 明治十一(一八七八)年、哲学者のアーネスト・フェノロサ東京大学で政治学や哲学史を教えるために明治政府に招致されてアメリカから来日しました。かねてより美術に関心があったフェノロサ狩野派に絵を学び、雅号をもつほどとなります。

 ここでひとつ重要なことは彼は狩野派に絵を学ぶより以前に"art"の概念をもっていたということです。そのことだけを考慮しても日本美術の本流ともいえる狩野派の芸術的価値やそれを学ぶ意義やそれを見つめる眼は日本人のそれとは全く異なるものであったと考えられます。というより、当時の日本人がそのような意識をもっていなかったことがその後彼を日本美術に対する活動家として突き動かしたといえるのかもしれません。そして先の記事にも書いておりますが、当時は「美術」や「批評」という言葉やその概念が多くの日本人にとって今日のように当たり前のものではありませんでした。フェノロサはそのような時代に「批評」という言葉を主体的に用いて日本の「美術」を整えようとしはじめたのです。

 

 時を少しさかのぼって明治一◯(一八七七)年、フェノロサが来日する一年前に日本で初となる第一回内国勧業博覧会が開催されていました。くどいようですが当時はまだ"art"も”critque"も一般的に認識されてはいません。しかし、この第一回内国勧業博覧会において日本初の紙誌面上に活字として現れた美術に関する批評めいた論説が公布されました*1

 今日の私たちからみると、美術批評は知らない、しかし、美術批評は存在するという複雑な状況が成立したようにもみえます。なぜそのようにみえるのかというと、今日の私たちと当時の彼らのあいだに美術批評に対する認識差があるからです。当時、美術批評=美術に関する批評めいた論説として公布されたものは今日の私たちが美術批評だとするものとその目的も意味も大きく異なるものでした。

 内国勧業博覧会はビジネスの性質が強い殖産興行の場でありそれは近代的なモノの評価システムともいえます。そしてその性格上、全国から集められた品々は実際にモノとして役に立つか汎用性はあるかなどの基準で経済資本としての優劣を判定されて序列がつけられました。当時はこうした評価システムの一要素が審査でありその審査によって選ばれたモノに対する評価の内容が品評だったのです。

 この審査・品評はその後永きにわたって日本人が美術作品を判断するときの素地として機能することになります*2

 

フェノロサの美術批評、フェノロサと美術批評 

 明治一◯(一八七七)年の審査・品評の有り様を確認したところで、同時代、明治一四(一八八一)年のフェノロサの発言をみてみましょう。

「批評の真の機能は観念を目標とするものの中に不完全性を見抜くことにあります。観念を偽り弱めるものを、批評はすぐに見破らなければなりません。従って、批評はあらゆる作品を単一の優劣の尺度に入れることができる筈だ、と想像するのは誤りです。我々が最初に問うべきは画家が何を意図したか、彼の観念は何か、であります。これが分かった時、次にどういう点で彼がその達成に失敗したかを調べ、それについてのみ彼を批判すればよいのです」

明治一四(一八八一)年四月一◯日「東京の美術家達を前にした美術に関する講演」*3 

  彼は美術批評の目的として、その芸術が表現しようとしているアイディアに対して実際にその芸術作品に現れている芸術性がそのアイディアに到達しているかどうかを判断することを挙げています。そして、だからこそ、それぞれが異なる独自のアイディアをもつ芸術作品らを全て同じ基準で判断することはできないのだとしています。

 また、別の機会には、美術批評には「画家同士が互いに競い合い、各人の能力を最大限に発揮して最上の個性的独創的作品を制作するよう鼓舞する」*4働きがあるともいっています。彼は芸術家たちがお互いの作品を批評し合うことでその芸術性を高め合う手法にもなると考えていたようです。

 そしてフェノロサはその考えを明治十七(一八八四)年に設立された鑑画会での活動で実際に示そうとしました。彼は画家らに対して美術の教育手法として美術批評を用いました。また、その逆に美術教育を通して実践的な美術批評の教育をも施すことを目指していました。教育的手法として美術⇄批評を反響させ合うことで、日本人画家らを向上させようとしたのです*5

 フェノロサによる鑑画会では評価項目に「意匠・知識・技術」を設けた褒賞制度を導入していました。評価項目の最初にあげられている「意匠」は、観念≒芸術に対するアイディアを含む総合的なデザインを意味しています。このことからも彼が作品を批評する際にはまずその「意匠」と向き合うべきだと考えていたことがわかります。また、褒賞をつける審査には一般の人々による投票も加えられたそうですから、彼はこの時点ですでに観衆の鑑賞力の育成をもその活動の視野にいれていたのでしょう*6

 

 しかし、当時一般には褒賞制度=内国勧業博覧会などでおこなわれる集められた様々な種類の品々の全てを審査員が同一の基準で判別し優劣を授ける制度だと認識されていました。そして博覧会における褒賞制度とフェノロサがおこなった褒賞制度は「褒賞制度」という名前と作品を項目ごとに判定して各人が褒賞をつけて判別するという形式、手法が同一であったことから、人々はそのフェノロサによる新しい取り組みのその背景や目的を察することができずフェノロサの褒賞制度の革新さに気づくことができませんでした。博覧会における褒賞制度もフェノロサの褒賞制度も違いはないと考えられていたのです。つまり、形式の類似性からフェノロサの実践する批評的性格をもった褒賞制度も従来博覧会でおこなわれていた技術審査としての褒賞制度と同じ、作品を客観的に判断する手法のひとつだと認識されてしまったようです*7

 こうしてフェノロサによる革新的な美術批評に関する活動がこの時点では一般に対して大々的に機能することもなかったこともあり、博覧会で行われた審査・品評は日本人に深く根付くことになります。それは私たちの素地として組み込まれたといってもいいかもしれません。そしてその後、それが美術批評に対する日本人の認識を複雑にしました。

 

審査・品評≠美術批評、モノ≠芸術作品

 技術審査と美術批評の違いを感じていないということは、モノと作品の違いを感じていないということと同義だと考えることもできるでしょう。そしてモノと作品に違いがない世界にはおそらく美術という概念も存在しません。よって当時はそこに美術はまだ存在しておらず、「美術らしきもの」が少し顔をみせはじめたころだったのではないかと考えられます。

 しかし当時最大のメディアである新聞はその「美術らしきもの」の成熟を待つことなくそれを拡散しはじめました。美術批評についても同様で、「美術らしきもの」の副産物としてその枠組みのみがメディアで取り上げられはじめました。 

 その後、そのカウンターとしてその曖昧な概念を規定しようとする動きがおこります。その動きは美術批評を美術という概念を規定するために美術を語る行為と捉え、美術批評は美術を規定する唯一の行為であり美術批評をされることではじめて美術は成立すると考えました。つまり、モノは<批評>されて「美術作品」となったのです*8。このように再編された美術批評はその後その経緯や本質よりも実践的手法の標準を求められることになります。

 

 

次回はその美術批評の標準をめぐる外山正一と森鴎外の論争を取り上げたいと思います。

 

*1:『審査評語』のことを指しています。大熊敏之「明治中期以降の美術批評論」(一)(『三の丸尚蔵館年報・紀要』第三号 一九九七年)参考

*2:この段落は神内有理『<美術批評>の十九世紀』(京都造形芸術大学、博士論文、二◯◯九年)を参照しています。

*3:村形明子編訳『ハーヴァード大学ホートン・ライブラリー蔵 アーネスト・F・フェノロサ資料』第二貫(ミュージアム出版 一九八四年) 三一頁)

*4:村形明子 前掲書 一一四頁

*5:鑑画会については、主として山口静一『フェノロサ』上(三省堂 一九八二年)、細野正信「第一章日本美術院前史」、佐藤道信「鑑画会」(『日本美術院百年史』第一巻(上)、日本美術院 一九八九年)を参照。

*6:神内有理 前掲書 三三頁

*7:神内有理 前掲書 三四〜三五頁

*8:神内有理 前掲書 三五頁