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第三回 美術批評を知っていますか

 四か月以上ぶりの更新となってしまいましたが、引き続き六回連載の第三回を書きます。第一回は序論というか、私の心持ちを、第二回はアーネスト・フェノロサの活動から、日本における”もの”→”作品”をみつめるまなざしについてを書きました。確認がてらもう一度読んでやってもいいという奇特な方はリンクからぜひご再読ください。

 今回は、今日では誰でもが知る森鴎外(もりおうがい)がまだ一介の医学生森林太郎(もりりんたろう)だったころに、帝国大学(現在の東京大学)教授外山正一(とやままさかず)に雑誌面上で論争を仕掛けたお話を中心にしていきます。

 

 

明治美術会の発足

 先回にも登場したアーネスト・フェノロサは、明治一五(一八八二)年「美術新説」と題する講演で、油絵より日本画の線描の方が彼の考える「妙想」=アイディア*1を表現しているとし、伝統*2美術の復興を訴えました。この講演は、美術領域だけではない広範に影響を与えます。それは、西洋化=近代化と考え、写実的な洋画を応援していた明治政府の文化観を揺るがすほど大きなものでした。

 実際、彼の講演があったその年に開催された官営の第一回内国絵画共進会に、洋画の出品は拒否をされてしまいます。こうした気運に対抗するべく、明治二二(一八八九)年、明治美術会が発足します。浅井忠(あさいちゅう)や川村清雄(かわむらきよお)、原田直次郎(はらだなおじろう)が中心となり、当時日本にいた洋画家のほぼ全てである約八◯人から結成されました。彼らは洋画を日本人になじませるために、日本の風景や風俗、宗教、物語伝説などを積極的に油絵で描くという工夫をしました。こうした画題の選択を含む、当時の日本美術の画題について、外山が自論を述べることから今回とりあげる論争がはじまります。

 

外山の主張、鴎外の反論

 明治二三(一八九◯)年、明治美術会の大会にて、当時帝国大学教授だった外山は「日本絵画ノ未来」と題する講演をおこないました。その内容をごく簡単に紹介します。まず、日本美術界の問題は日本画、洋画を問わず画題の貧困にあると外山は主張しました。また、絵が鑑賞者にとって無感動におわってしまうのは、画家がその絵に感動をあらわさず、ただ形の表現にとらわれているとも主張しました。外山は、画家は旧来の画題にこだわらず、一般の人々の感情により密接で、注目しやすい画題を選ぶことが原則だとし、今後描かれるべき画題について論じました。

 この講演は東京朝日新聞にも大々的にとりあげられました。専ら政治や社会ニュースをあつかう大新聞がこうした美術に関する論説をとりあげたのは、これが初めてのことでした。このことからも、この講演が当時の知識階級に与えた衝撃の大きさが想像できます。*3 

 そうした外山の論に真っ向から反論したのが林太郎でした。林太郎は「外山正一氏の畫論を駁す*4」という論文を自らの雑誌『しがらみ草紙』で公表しました。こちらの内容もごく簡単に紹介しましょう。まず、林太郎は、日本美術の問題が画題にあるという外山の現状把握を否認しています。そして、むしろ画題は豊富だが、画家の表現と技術がいかにひとつの画材によって結実するかという点に問題があると主張しました。また、一般の人々の感情に、より密接で、注目しやすい画題を選ぶことが原則だとする外山の主張に対しては、画家は何の着想もないところから自由に芸術表現を構想することは可能だと主張しました。さらに、世間一般の人々の注目を集めるために、その時分の世俗に寄った画題を描くことは、その絵画の真価を求める姿勢自体を失いやすいため、画題は注目されるかいなかという点で決めるべきではないと反論しました。

 

メディアによる論争がもたらしたもの

 外山の講演内容は新聞で、林太郎の反論は自身の雑誌によって公表されました。どちらの論も、メディアによって公になったのです。当時すでに帝国大学教授として知られていた外山と、ドイツから帰国して自分の雑誌を立ち上げて、文筆活動をはじめたばかりの林太郎の対立構造は、スキャンダリスティックな面白さをはらんでおり、メディアの格好のネタだったのだと思います。新聞も、「美術論場に一大戦端を開かんとす*5」などと派手な見出しをつけて、その論争を詳しく報じました。といっても、実際外山は林太郎の反論に対して何の応答もしませんでしたから、詳しく報じられたのは新聞記者らを含む外野のリアクションでした。

 多くの新聞記者は林太郎の論を支持しました*6。林太郎が反論の根拠に美学を用いたことがその理由のひとつだといえます。林太郎は当時、美学を「実際に批評に応用がきき、(中略)さまざまな芸術を包括して説明することができる*7」ものだと考えており、外山に対する反論にも美学(具体的にはハルトマン審美学)を援用していたのです。

 

 この論争を別の角度からみてみると、大物である帝大教授外山の絵画論に、駆け出しの論客であった林太郎が「美学」を用いて挑み、その対立構造にメディア独特の面白さを嗅ぎつけた新聞記者たちが、その新参論客の武器とする「美学」に美術批評の実践的標準を見出した。そして、結果的にそれが一般にも広まったといえるかもしれません。

 また別の見方をしてみると、まだ日本では知られていない「美学」という、批評に応用がきき、あらゆる芸術を説明することができる学問を学んだ若き野心的な論客 林太郎が、業界の大物 外山相手に挑戦的なポーズをとることでメディアを引きつけ、それを利用し、その「美学」を一般に認知させることに成功したともいえます。こうした林太郎の行動は、「美学」という学問のプロパガンダともいえ、林太郎によって「美学」は批評に応用がきき、あらゆる芸術を説明することができるひとつの手段であると人々は思い込まされたのかもしれません*8

 いずれにせよ、結果的にこの論争によって、「美学」は広く知られることとなり、人々はそれを美術批評の実践的手法の標準であると認識しはじめたのです。

 

 

 次回は、明治中ごろにおいて美術批評の書き手が多様になったことから、近代日本の美術批評について書く予定です。

 

*1:私の読んだ限り、現代日本語ではこう訳されることが多いです。

*2:このあたりの言葉の表現については、繊細に気にされる方もいるかもしれませんが、本回では別に焦点を当てたいので、便宜上このまま書きすすめます。

*3:木々康子『林忠正とその時代』(筑摩書房、一九八七年)一一八頁

*4:「畫」は「画」の旧字体で、「駁す」は「ばくす」、他人の考えに反論するという意味です。つまり、「外山正一氏の絵画論に反論する」。

*5:『東京新報』(一八九◯年五月二五日)

*6:中村義一『日本近代美術論争史』(求龍堂、一九八一年)四五〜四六頁

*7:坂井健「鴎外がハルトマンを選んだわけ」(佛教大学、文学部論集第九◯号、二◯◯六年)二頁

*8:神林恒道「「美学」は「批評」にとって有効か」(『美術フォーラム21』第二号、二◯◯◯年)