第四回 美術批評を知っていますか

 今回は、明治時代後期の美術批評の書き手たちについてです。先回で書いたように、明治二◯(一八八七)年代は様々な文化における標準が求められた時期でした。その後、明治三◯(一八九七)年ごろには戦争景気によって美術品そのものの需要とともに美術関係の出版も増加します。標準を求めはじめた人々にメディアの隆盛期が訪れた、この状況は、これまで以上に多くの発信者、書き手をうみだします。

 ここでは、この時期にあらわれた美術批評の専門家ではない(=非美術批評家)が美術批評をした書き手らを、その属性ごとに大別して紹介するとともに、美術界の外側における美術批評家観について考えてみたいと思います*1

 

雑誌『美術評論』の創刊

 明治二七(一八九四)年からおこった日清戦争の戦争景気は、日本の美術界にも刺激を与えました。戦勝報道とともにナショナリズムが高揚すると、伝統流派の守旧的な(ずぼらな言い方をすると「日本っぽい」)美術作品の需要が高まりました。実際需要が高まったのは、そうした作品だけでしたが、その社会が美術作品を強く求める雰囲気は美術界全体に少なからぬ影響を与えました。

 また、出版業界も好景気にわきました。今日のような大規模な企業体ではありませんが出版社や新聞社が次々に起こり、そして様々なジャンルの著作が出版されました。美術に関する出版物も例外ではなく、読みものから図版入りの図録のようなものまで、一般に広く流通しはじめました。日本初の美術批評専門誌『美術評論』も、美術雑誌の黎明期と言えるこのころに創刊されました。

 雑誌『美術評論』は日本初の美術批評を専門とした美術雑載として、明治三◯(一八九七)年に創刊されました。当時、東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)の助教授だった美術史家・美術批評家の大村西崖(おおむらせいがい)と、アメリカ留学から帰国後、黒田清輝(くろだせいき)や久米桂一郎(くめけいいちろう)らと白馬会を立ち上げた岩村透(いわむらとおる)の二人が主催です。しかし、実質的に内容を決定していたのは森鴎外(もりおうがい)で、世間も『美術評論』=鴎外の雑誌と認識していたようです*2

 当時では新しい様々な取り組みが施されました。多くの図版を用いながら、美術全般に関する論説やヨーロッパの美術史についての論考、展覧会出品作品に対する批評の記事を掲載しながら、日本の美術界における時事を批評しようとしました。それらは、当時の他の雑誌にはみられない『美術評論』の独創的な取り組みです。

 雑誌『美術評論』創刊号の序言は、美術批評ないし美術批評家の必要性を訴えかけるところから始まります。彼らは、美術批評は「美学と芸術の設定*3」であり、美術批評をするためには美学に精通している必要がある、と考えていました。その一方で、彼らは技術、つまり作品を実際につくるための力・経験・知識の重要性も理解していました。しかし、やはりあくまでも、彼らにって美術批評にとって最も重要なものは美学で、それらは補助的な参考情報に過ぎなかったようです。

 アカデミックな教育で美学を修めた彼らは、美術批評の専門家=美術批評家である自分たちの存在意義とその役割・機能を規定するために、非美術批評家らによる美術批評と自分たちの美術批評を、美学という学問的な見地の有無によって差別化しようとします。そうした態度や理念は、結果的に彼らの狙い通り、美術批評家の存在を世間に印象付けることになります。 

 

美術批評をした非美術批評家たち

 実際、世間は雑誌『美術評論』が創刊された明治三◯(一八九七)年より以前から、美術批評の専門家としての美術批評家を求めていました。文化・美術の標準を求めていたのです。そうした、いわば美術批評家不在の状況下でも美術批評の枠組みは既に成立していました。

 現在も新聞において新聞美術記者らは活躍していますが、この当時、明治中期には新聞に美術専門の記者による美術関連の記事が掲載されることは普通のことでした。例えば、新聞紙上に新聞記者による美術展覧会評等が掲載されれば、それに対する応答や批判記事が他の文芸雑誌面上に掲載され、メディア上での美術批評論議が繰り広げられることも少なくありませんでした。

 先述したように、美術批評家が真の美術批評の担い手だと考える雑誌『美術評論』は、新聞美術記者の存在、そして彼らの美術批評に対して否定的でした。「美術が何か、技術が何かそのけぢめに分からぬ世の新聞記者などが、徒に降らぬ事を美術々々と書き立てて、世間に吹聴*4」していると、痛烈に批判しています。

 しかし、美術界より外側の社会、特に政治や経済(というより商売)の業界においては、新聞美術記者らはそれなりに信頼を得ていました。なぜなら、彼らは美術界の派閥・門閥に属さない存在であるため、そうした偏重を美術批評に持ち込まないと考えられたからです。また、新聞記者という特性から「社会の意思を代表しまた自らの意思も公衆に伝えられる*5」とも考えられていました。そのため、明治三三(一九◯◯)年のパリ万国博覧会への出品作を決めるための審査員には、多くの新聞美術記者が美術批評の専門家として選出されました。

 先に結果を書きますと、彼らの選出した作品らはパリ万国博覧会では期待したほどの評価を得ることができず、不振に終わります。美術に関する専門性よりもメディアにおける発信力を期待して、多くの新聞記者を審査員に選抜したために失敗したと当時の社会もこの一連のできごとを評価しました。これによって逆説的に美術批評家の存在が新聞美術記者とは一線を画すものだと社会に示されました。

 これ以降、今日に至るまで美術博覧会の審査員に専門の美術批評家が加わることは一般化しましたが、新聞美術記者が審査員として選出されることはほとんどなくなりました。

 非美術批評家で美術批評をしたのは新聞記者だけではありません。美術作家たちも彼ら自身の言葉をメディアで発表していました。明治三◯(一八九七)年ごろから、美術作家が自身の作品についての解説や着想、制作時の心理などを書いた「苦心談」が文芸批評雑誌に掲載され始めます。そして、それ以降そうした言説は「苦心談」の形式に限らず、様々なかたちで作家の談話や文章が雑誌等に発表されるようになります。

 そもそも美術作家らの言葉は美術批評家たちの作品に対する批評に対する反発として発せられ始め、定着していきました。美術批評家によって美術作家の意図とはまるで異なる解釈をされてしまった場合、作家らがそれに対して否定・批判する必要が生じたのです。

 例えば、この時代に創出された理想画という精神性を作品のテーマとするジャンルの作品は、その意図や思想がそれを実際に創った作家の言葉なくしては理解されにくいものです。そのため、美術作家たちも言葉を発信しなくてはなりませんでした。美術界の趨勢によって美術家たちも言葉をもつ必要が出てきた時代になったと言うこともできるでしょう。美術作家VS美術批評家の議論はメディア上で活発に繰り広げられました。

 

美術界の外側における美術批評家観

 美術批評家、新聞美術記者、美術作家。多様な属性の書き手による美術批評が、メディアによって発表されました。では、一般の人々は誰の美術批評を正当だと考えたのでしょう。

 明治三◯年代末期、一般的に画家による批評は「黒人評」、批評家による批評は「素人評」と呼ばれていました。「黒人評」とは、黒人(くろひと)=玄人(くろうと)による評論のことで、「素人評」とは、素人(しろうと)の評論のことです。つまり、一般の人々にとって正統な評論は美術作家によるものでした。つまり、少なくとも美術界の外側の一般の人々にとって、美術作家が美術批評の正統な書き手だったということが分かります。

 現代においては多くの人々が、美術作家自身の美術批評より美術批評の専門家である美術批評家の美術批評の方が信頼に足ると考えるのではないでしょうか。しかし、明治後期においてはそのようには考えられていなかった。それはなぜでしょう。

 社会的な背景の違いが影響しますからその理由は複合的なものとなりますが、いくつかある要因のひとつには、明治後期に美術鑑賞、美術として何かを鑑賞する機会が少なかったことがあるのではないかと私は考えています。現代の私たちは美術を鑑賞する「つもり」を前提的に持っています。少々荒っぽい言い方ですが、この「つもり」さえあれば、どこでも、何に対しても美術鑑賞は可能です。しかし、明治後期においてはこの「つもり」自体がそれほど一般には普及していませんでした。つまり、一般の人々には、予め美術という概念を伴って作品と対峙する時間=美術鑑賞の機会があまりなかったのです。

 他者の批評が妥当か、そうでないかを判断しようとするとき、私たちは自分たちの「眼」をつかいます。その「眼」は、美術批評においては、美術作品と対峙する機会の蓄積によって精度が高められるものです。しかし、先述したように明治後期の人々にはその「眼」の精度を挙げるための美術鑑賞の機会がほとんどなかったと言えます。そのため、「眼」の意義が理解できず、「眼」よりも「腕」(=実際に作品を創ることのできる技術)をもつ者を信頼した結果、美術作家の美術批評を正統な美術批評だと判断したのではないか、と私は考えました。

   

 次回は、文部省美術展覧会の開催から、美術批評の創成について考えてみたいと思います。

 

*1:今回の記事で用いている基礎的な情報については、神内有理「第三章 美術批評専門雑誌『美術評論』創刊ー「専門化」の時代」『<美術批評>の十九世紀』(京都造形芸術大学、博士論文、二◯◯九年)を、参照、参考にしています。

*2:吉田千鶴子「大村西崖の美術批評」『東京芸術大学研究紀要』二六号、一九九一年

*3:中村義一『日本近代美術論争史』(求龍堂、一九八一年)二三四頁

*4:晩香園・潮音・無記庵「雑感」『美術評論』第九号、一八九八年三月

*5:中村義一、前掲書、二三四頁